このコラムでは、金本位制の歴史を通観します。
金貨本位制は、金現物を貨幣として流通させることです。実際には、物理的な制限などで難題があります。そこで、中央銀行が金地金との交換を保証する兌換紙幣を流通させ、貨幣価値を金に裏づけさせる、金地金本位制もふくんでいます。
20世紀に管理通貨制度が採用される以前は、欧米諸国を中心とした国際決済市場では金本位制を利用することが一般的でした。銀行に金貨、金地金を預託し、その預かり券(紙幣)を用いて取引を行いました。最終的な決済は、売り手と買い手が指定する銀行間で金現物を輸送することで精算していました。
金本位制による国際決済は、戦争によりしばしば中断されました。19世紀には、ロンドンが国際決済の中心でした。第1次世界大戦がおこると、金本位制は、中断を余儀なくされました。
たとえば、日本は1913年12月末の時点で、日銀正貨準備は1億3000万円、ロンドンにあずけられていた在外正貨は、2億4600万円でした。外貨決済は、8割以上がロンドンでした。
第1次世界大戦で、ロンドンの金融機関が閉鎖すると混乱がおきました。1919年にはアメリカが、1925年にはイギリスが金本位制に復帰しました。
金本位制では、金塊を国際市場がある都市に集中させざるをえませんでした。19世紀におけるロンドン、20世紀にかけて地位を継承したニューヨークには、世界各国の中央銀行の支店や各国政府の出先機関が集中していました。各国の国際収支の調整は、その都市に設置された支店間での金塊の現送によっていました。
1次世界大戦の前後から、アメリカは、経済力を増してきます。ヨーロッパとちがい、戦場にならなかったアメリカには富が集中してきます。とうぜんですが、金現物もあつまってきます。この富の集中が、金本位制度を持続できなくなった原因とされています。
アメリカが不胎化政策をとったことは、金本位制の国際収支調整メカニズムを機能不全に落ち入らせ、世界恐慌を深刻化させた一因となりました。
ここが、金本位制が崩れてくるクライマックスです。
この経緯に関しては、稿をあらため集中連載を予定しています。納得できるまで追求することにします。
金本位制が、管理通貨制度に移行したのは、1929年の世界恐慌がきっかけです。
イギリスは、1931年、金本位制から離脱しました。アメリカは1933年、フランスは1936年に離脱しました。この時代は、金本位制を放棄して自国通貨を切り下げ、国内の貨幣供給量を拡大した国ほど、早く不況から脱したことが知られています。
通貨安競争は、1929年の世界恐慌で行われたといわれます。イギリスは、1931年にポンドを切り下げました。1936年、三国通貨協定まで多くの欧州諸国が追随して通貨を切り下げました。
三国通貨協定 (Tripartite Agreement)とは、アメリカ、イギリス、フランスが結んだ、為替安定のための協定です。
具体的には、三国は、たがいの通貨の価値を尊重して競争的な切り下げを行わず、為替が不安定になったばあいは、協力して市場介入を行うことを約束しました。金本位制への復帰を事実上断念し、各国が通貨価値を自国の政策で管理する体制(管理通貨制度)が既成事実として固まった象徴的な転換点でした。
1930年代の通貨安競争は、世界貿易の縮小と国際協調の崩壊をうみ、経済のブロック化 をまねいたとされます。混乱の休戦協定 が、三国通貨協定でした。
1934年、アメリカは、従来の金1オンス、20.67ドルを廃し、35ドルに固定しました。第二次世界大戦後の1944年、ブレトンウッズ協定では、金1オンス、35ドルが国際的に再確認され、アメリカ合衆国ドルを基軸通貨とし、各国通貨は米ドルとの固定相場制が採用されました。この体制下で、IMF加盟各国は独自に管理通貨制度をとり、通貨当局は為替介入と金融政策により対ドル固定相場を上下幅1%以内に維持しました。
この制度は、「金ドル本位制」、「金為替本位制」といわれます。
1971年、ニクソン大統領は、アメリカの財政赤字、経常収支の赤字からインフレが進行、ドルと金の兌換停止に踏み切ります。
このとき、ドルと金の国際的な兌換が停止され、ブレトンウッズ体制(事実上の金ドル本位制)は終焉し、国際通貨体制としても完全な管理通貨制度へ移行しました。
