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小説新人賞

 私は、こうした賞を否定する立場にありません。新人賞がもうけられていたので、創作の期限を決め、改訂を目指すきっかけをつくってもらえました。人にみせられる65作品をのこせたのは、新人賞が至る所にあったからです。たいへん、ありがたいことでした。

 小説新人賞では、「同一投稿は、許可しない」という但し書きをみることがあります。しかし、投稿者がいい加減な気持ちで郵送料を支払う行為におよぶとは考えにくいです。投稿すると決めれば、最善をつくして改訂するのは間違いありません。もちろん、読み手はたいへんです。最後のページまで読んでもらえれば、一次予選は問題なく通過できると思います。ほとんどの作品は、最初の2、3ページでゴミ箱にすてられているのが現実でしょう。

 自慢にはなりませんが、おそらくギネス並に落選をつづけていました。60年ちかい投稿歴をもっていますが、有力な文芸誌の3次予選くらいまでが限界でした。そこまでいくと、もうすこしなおせたのではなかったかと、作品を今までとは違う観点からみることができます。すくなくとも5年間、20の新人賞に投稿しつづけた実績があります。この部分だけで、確実に100になります。

 このペンネームは、すでに悪名が高く、みただけで廃棄処分が決定されている事態も想像されました。実際に、筆名を変えて投稿したこともあります。しかし、担当者がそこまで考えるなら、年齢や性別、住所なども参考にするはずです。落選理由ではないと判断し、このペンネームをつかっています。

 新人賞受賞者がその後どうなったのかは、興味をもっていました。たとえ運よく受賞しても、小説をかいて生活できる人はほんの一握りです。自分で作家だと考えるのは自由ですが、客観的な評価を維持するのは難しい領域です。

 なんらかの運をふくめた「才能」という名づけがたいものが問われる分野は、スポーツであれ、芸術であれ、悲劇をうむ可能性をつねにはらんでいます。さらに複雑なのは、小説新人賞が才能発掘を主目的にしてはいないことです。出版書の事情によってつくられていますので、話題性がいちばんの条件になります。このため主題は、現代にマッチしなければなりません。しかし創作活動とは、どうでもいいことを考える行為を指しています。したがって、作者は基本的に内向的で妄想的です。人と打ち解けることを苦手とする者以外は、創作などという面倒くさいことはしません。新人賞受賞とは、この作者の内向性と、人びとが活動している現実とのはげしい乖離を、なんらかの手段で埋めなければなりません。

 投稿をつづけていたころは、受賞作はほとんど読みつくしました。しかし、この作者には敵わないと思えれば、創作をつづけないですんだ可能性もあります。評論家は、自分が作者ではないという前提で論評しますから容易に比較ができます。いっぽう作者は、自分が劣っていると認められれば、創作を放棄できます。内向的で妄想的な個性をもつなら、一般人が考えるほど簡単な問題ではありません。

 結局、自分がもっているオリジナリティを比べることになります。受賞作に圧倒されるのは、独創性という範疇で敵わないと認められるばあいだけです。しかし、このオリジナリティとは、突きつめれば変人度ですから、容易に納得できません。

 つまり、創作活動は、非常に解決困難な構造をかかえています。

 最終的には、主題が重くて現代にはマッチしない。活字離れの時代は、かならず揺りもどしがくる。軽薄不調で手軽な「SNSの時代」は、どこかで大きく逆流する。もう一度、人間の意味を問い直す社会が到来する。人類史は、ずっとこの反復運動をしている。などという妄想的な思考から抜けでることは困難です。

 作品番号45「異次元の女王」は、新人賞を受賞した場面から物語がはじまります。

「妄想の果ての物語」と、名づけてもいいかもしれません。

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