ナラティブとは、世界を理解するための物語ではなく、 自分が望む形に書き換える「装置」です。ナラティブが横行すると、事実は編集され、解釈によって上書きされます。
オックスフォード英語辞典によれば、 Narrative という語は16 世紀の法的文書が初出で、出来事のつらなりを記述する意味でつかわれています。
1980年代、 Narrativeは「人間の経験を構築する装置」として、つかわれはじめました。ここが、転換点になりました。
1990年代後半から、医療、看護、心理学、社会学、教育学
福祉 などの領域で急速に普及しました。とくに 「科学的根拠ではとらえられない領域をあつかう語」 として注目されました。
物事を望む形に書き換える装置としてのナラティブは、 ポスト真実(post-truth)社会の分析(2010年代以降)で、急速に議論されるようになった新しい用法です。SNS、政治、メディア環境の変化により、 ナラティブは、「現実を書き換える力」 という意味が強調されるようになりました。
現実がうまくいかないとき、人は世界を物語として書き換え、 自分を納得させようとします。 ナラティブは、自己愛をまもる装置をしてつかわれます。責任を曖昧にし、 客観を霧散させます。
政治では、 国家が他国に仕掛ける認知戦の脚本 という意味でつかわれています。あるフレーズに多様な意味を一挙にあたえ、物語化します。たとえば、「台湾問題への介入」、「軍国主義復活」、「対米従属」、「MAGA」というようなフレーズです。かつてのスローガンやレッテル貼りと、おなじになっています。
ナラティブは、国際政治、安全保障、情報戦、プロパガンダ研究 で標準語になっているのが現状です。
ナラティブは、個人と政治では、用法が違っているようにいわれます。しかし、一皮むくとおなじ構図がみえてきます。
国家のナラティブも、個人のナラティブも、 本質はただ一つです。 現実を、自分に都合のよい形に書き換える装置として機能しています。国家は 自国の立場を正当化するため、個人は 自分の心をまもるために現実を書き換えます。規模が違うだけで、 構造は完全に同一です。
国家のナラティブの結論は、「我々は正しい」「相手が悪い」
個人のナラティブの結論は、「自分は悪くない」「社会が悪い」
つまり、 ナラティブとは、主体が自分を守るための正当化装置です。国家も個人も、 現実不全の補填として生まれています。
国家の現実不全は、経済停滞、国際的地位の低下、軍事的脅威、国内の不満などです。個人の現実不全は、経済的停滞、将来不安、自己能力感の低下、社会的孤立などです。現実がうまくいかないとき、国家も個人も、ナラティブに逃げこみます。どちらも、主観の世界に閉じこもり、客観性を放棄します。
ナラティブは、 AI分析と相性がいいのです。AIは、時系列と単語を知っているだけです。この間隙を埋めるものは、ほんらい客観だったのですが、いまは主観でいいことにされています。
経済成長が止まると、人は現実を受け入れられなくなりました。
物語は、 現実の政治を努力の産物にかえ、過去の事実から自分をまもります。 そのとき、ナラティブは都合のいい現実を容認するための装置としてうごきはじめます。
これらの作品は、ナラティブの構造をあきらかにした小説です。
客観的事実を積みかさねて、虚構をつくるのが小説です。客観的事実をもりこんで、自分に都合良く編集し、承認をもとめる行為がナラティブです。小説がつくりだす虚構の世界は、自己表現ではありますが、あくまで作り物です。ナラティブは、自分のなかで虚構化を拒否しています。つくりだしたものを、事実として承認させようとする試みです。そこに、異論を許させない構造が生まれます。
とても、危険な行為といえます。
