• 月山

     作品番号63「こぶをすべる」の最終舞台は、月山スキー場です。

     こぶを語るのに、月山をぬきにはできません。スキー場は、冬期に降雪があった場所で、どんなに標高が高くとも4月には営業を終えます。月山は、4月になってようやくオープンし、6~7月でも充分に滑れます。自然雪で、氷河でも人工雪でもありません。標高3000メートル級の山なら可能かもしれませんが、月山スキー場の標高は、1300~1600メートルにすぎません。この条件で夏スキーができるのは、世界でも月山くらいだといえます。

     気象庁の積雪ランキングは、常設観測点があるところを対象にしています。月山山頂には観測点が設けられないためランキングから外されますが、事実上、日本一の降雪量があります。さらに積雪量としては、世界的な規模をほこっています。なぜ、こうしたことが起こるのでしょうか?
     日本列島が冬型、西高東低の気圧配置になると、シベリア高気圧から日本海にむけ、北西風がふきます。冷たく乾燥したシベリア寒気団は、暖かい海を通過すると海面から大量の水蒸気を吸い上げ、雪雲をつぎつぎと発生させます。これが、典型的な冬型の降雪メカニズムをつくっていると考えられます。
     日本海で発生した雪雲は東へながされ、出羽山脈を構成する鳥海山、月山、朝日連峰に衝突します。この降雪をもたらす原液と、最初に正面衝突するのが、海から一番ちかい月山になります。日本海からの雪雲が劣化するまえに、もっとも濃い状態でぶつかる最前線に位置しているのです。そのために、年間30メートルという積雪が起こります。しかし、この地理的条件だけで、7月まで自然雪が残る説明にはなりません。

     月山山頂は、日本の高山では珍しい平坦な台地型をしています。風が弱まり、雪が逃げ場をうしなって堆積しやすい地形になっています。山頂が受け皿となるため、風下側に巨大な吹きだまりが形成されるのです。姥ヶ岳、牛首、大雪城などの越年雪渓は、日本の山岳でもっとも広範囲に残る雪の倉庫です。
     富山県の立山、室堂は積雪深では有名です。月山は、積雪水量に換算すると1300mm級、山体の積雪賦存量としては5億トンを凌駕するともいわれます。これは、立山をこえ、世界でも例がないほどの雪の厚みが毎年形成されるのです。月山の越年雪渓は、この山が一年でどれほどの雪を飲みこんできたのかを示す、白い記録簿ともいえます。

     月山をみて誰もが感動するのは、雪山の白色と澄みわたった空によってうみだされる月山ブルーです。

     雪や氷は、太陽光のうち、赤、黄、緑の波長を強く吸収し、青い成分をもっとも通しやすい 性質をもっています。そのために雪面の内部で光が何度も散乱すると、 最終的に青だけが残るという現象が生まれます。

     これが、月山ブルーの正体です。

     蔵王山頂、熊野岳は1841メートルです。月山山頂は、標高1984メートルです。標高差からみるなら、140メートルほど月山が高いにすぎません。蔵王山頂は、稜線地形のために強風で雪が飛んでしまいます。樹木は、雪に埋まりますが、幹の上部は必ず露出し、枝に着氷し、樹氷(アイスモンスター)を形成します。ですから、蔵王ブルーは出現しません。

     月山は、圧倒的な積雪量のため樹木はすべて埋もれ、生き残れません。山全体が白色に埋めつくされるので、鮮烈な月山ブルーがうまれるのです。

                              由布木秀

  • インド仏教徒

     作品番号14「仏陀の弟子たち」を改訂しました。

     この小説の舞台は、インドのラージギルにある日本山妙法寺です。

     私は20代後半、インドを放浪していたときに、この寺に宿泊させてもらいました。住職は、50歳くらいの芸大をでた彫刻家でした。その話を旅行中に聞きおよび、面会に行ったのでした。彼とはいっしょに露天風呂に行き、リムカという炭酸飲料水をごちそうになりました。

     そのときの思い出が、ずっと脳裏に焼きついています。

     2005年、「仏陀の弟子たち」という小説をかきました。2010年から改訂を重ね、幾度もなおしては文学賞に提出してみました。一度も予選を通過しませんでしたが、投稿する度に改訂をくりかえしました。この小説ができるためには、16期、250単位(375時間)が必要でした。創作ノートの枚数は、60枚です。

     日本山妙法寺は、藤井日達により創設されました。仏舎利塔を世界中に建立し、成田新東京国際空港、建設反対運動でも滑走路に塔を建てたことでも有名です。

     ナグプールでアンベードカルの意志をついでネオブッデストをひきいている佐々井秀嶺(1935~)については、この小説をかいていく過程で知りました。インド仏教徒の総帥を自認する藤井日達には、たいへん目障りな存在だったようです。

     日達は1985年に没し、享年100だったことになります。

     インドには、カーストが実在します。ヴァルナ(皮膚の色という意味)は、多様なものから構成されています。宗教カーストは、バラモン(僧侶階層)、クシャトリア(王侯、貴族、武士階層)、ヴァイシャ(商人階層)とつづきます。これら3ヴァルナは、生後、儀式を行ってヒンドゥーに生まれ変わるので、再生族とよばれます。4番目のヴァルナ、シュードラ(奴隷)は、彼らにつかえる使命をもって生まれ、そのまま死ぬので一生族といわれます。

     しかし、ヴァルナはこれで終わりません。この枠に入れない者たちが、ダリッド(不可触民)です。インド憲法の制定にかかわったアンベードカル(1891~1956)は、ダリッド出身でした。彼は、ヒンドゥー教の枠組みからのがれるために、ナグプールで50万人のダリッドをまとめ、仏教徒に集団改宗する道を選択しました。彼らは、ネオブッデストとよばれています。

     仏陀は、出自については、平等主義をつらぬきました。仏教は、さまざまに変貌しましたが、この点だけは譲らなかったのでインドを追放されました。

     インドは、宗教の坩堝とよばれています。あらゆる宗教が混在していますが、ほんらいヴァルナを認めていないイスラム教もカーストを内包しています。作品番号36.「ホテル・ウエルカム」では、主人公はベナレス(バラナシ)の繁華街、ゴドリアにあるイスラム教徒が経営するホテルに泊まっています。そこの家族は、イスラムでもっともカーストが高いアシュラーフという階層に属しています。

     イスラムの階層制度に触れた書籍は、みつけられません。しかし、事実はそうなのです。ヒンドゥー教のカースト制度を否定して生まれた、ジャイナ教、シーク教も内部に階層構造をかかえています。また、キリスト教会ですら、カーストによって4つにわけられ、さらにダリッド専用の教会が存在するといわれています。

     カーストを明確に否定する仏教徒は、ヒンドゥー教では、ダリッドよりもさらに低い第6のヴァルナに属するといわれます。こうした制度のなかで仏教を布教するのは、たいへん難しいと思われます。

     インドを旅するのは、こうした歴史を考えるということです。

     自分の出自を問い直すことです。そのなかで、日本がどうあるべきかが理解できるはずです。インドを、ただ不潔で、たくさんの人がいて命の価値が低い国と考えるなら、他国民から私たちも同じようにみられることを覚悟しなければなりません。

                              由布木秀

  • 洞窟

     コーランは、不思議な書物です。聖典とはいえ、個人の言行録という内容です。イスラム教には、さらに準聖典として別建てのムハンマド言行録「ハディース」が存在します。

     わけの分からないコーランのなかでも、第18章「洞窟」メッカ啓示、全110節は、際だって不明です。日本語訳を作成した井筒俊彦も、解説をつけていますが、とても納得できるものではありません。たんに奇妙なだけではなく、いくつかの話がいっしょになっています。組みあわせに、合理性が欠けています。

     冒頭に、エフェソスの「セブンスリーパーズ」の伝承が記載されています。信心深い若者たちが教えに背くことを拒否し、洞窟にとじこめられます。幾世代もたって目が覚めると、彼らが望んだ信仰ぶかい世界が到来しています。エフェソスは、トルコの地中海がわにある古代都市で、世界の七不思議、アルテミスの女神像で有名です。七人の眠り聖人の話は、ユダヤ教、キリスト教、ギリシア正教会、シリア教会、コプト教会などに伝わっています。

     つぎに「モーセの我慢」という有名な話がつづいています。

     モーセは、真理をもとめて、ふたつの海がむすびつく場所まで従者と旅をします。空腹を覚えたときに、従者が昼食用にもっていた魚が消えていることに気づきます。モーセは、魚がいなくなった場所こそが、海につづいていたことを知り、もどってみるとハディルに出会います。

     このハディルこそ、イスラムフォークロアの中心をになう存在です。神の最初の天使、緑の男ともいわれます。アレクサンドロス大王とは、親友です。彼は、いたる場所に出現します。イスラムの人びとは、日常的にハディルをみつけるともいわれます。彼は、作品番号31.「ソシュールからの手紙」に登場します。

     モーセは、ハディルに真理を教えてもらうために従者になりたいと希望します。彼は、無理だからやめろといわれますが、我慢を約束し、質問しないことを条件に許可されます。しかしモーセは、ハディルが船を沈めたり若者を殺したりするので、我慢ができなくなるという話です。

     つぎに、とうとつにアレクサンドロスの話が出てきます。彼は、世界の西と東の果てにいき、意のままに人民をおさめます。最後の審判で神が善悪の判断をくだすよりまえに、善い者を助け、悪い者をこらしめます。さらに北の最果てで、世界の終末に襲ってくるゴグとマゴグが、それ以前に来襲しないように鉄製の防御壁をつくります。

     第2と第3の話は、あきらかにハディルがつないでいます。

     セブンスリーパーズは、復活の物語です。ふたつの海がむすびつく場所にいる緑の男、ハディルは、死んでいた昼食用の魚から生きかえったのかも知れません。アレクサンドロス大王は、復活の日にむけた物語になっています。つまり、三つの話は、つながっているともいえます。復活は、洞窟のなかで起こる。よみがえる者は、ハディル。彼は、英知ばかりか、圧倒的な力と財力をもっています。

     ユングは、「変化過程をあきらかにするシンボル系列の一例」という小論のなかで、この話を詳細に取りあげています。(ユングの象徴論、野村美紀子訳、思索社)

     作品番号09.「海面下」は、この話をテーマに掘り下げています。

                              由布木秀

  • ゾロアスター

     このコラムを書こうと思って、ウィキペディアをみて仰天しました。

     ゾロアスターの活躍した時代が、紀元前600年頃と表記されています。これは、日本にアヴェスターを紹介した伊藤義教の個人的な説でした。つい10年くらいまえまで、極端な異説として相手にされなかった記憶があります。東大の教授とは、これほど権威があるものかと驚かされました。ゾロアスター研究の最高権威とされた、メアリー・ボイス(1920~2006)は、紀元前1500年~1200年という説を唱えていました。これは、理解しやすい年代です。私も、紀元前1200年頃に生存したと考えています。

     アーリア民族は、紀元前20世紀ごろ、ウラル山脈の西側から黒海北岸、カスピ海北岸、さらにカザフ草原の西部に広がる世界最大のステップ、キプチャップ草原に発祥したと考えられます。すくなくとも紀元前15世紀ごろから、インド・アーリア、イラン・アーリアとに分かれて、繰りかえし南下し、原住民と争いを起こし、定住したと考えられています。両者は、それぞれインド文明と、ペルシア文明の基礎をつくったとされます。アーリア民族は、3層からなるカーストに似た階級をもち、どちらの文明でも継続したといわれます。ですから、二つの文明は兄弟関係で、さまざまな類似点があります。

     インドの宗教書、ヴェーダは紀元前10世紀ごろからつくられはじめ、前5世紀ごろに成立したとされます。ペルシアのゾロアスター教とは、水の儀礼、牛や火に対する思想などがよく似ています。ゾロアスターの最高神、アフラマズダが、ヴェーダでは悪神に貶められた事実から、両者はたがいに教義を知りあう関係にあり、さらになんらかの敵意をいだいていたのではないかと想像されます。

     ゾロアスター教は、光と闇の善悪二元論が有名です。前6世紀に成立したアケメネス朝ペルシアでは、中心的な宗教になりました。紀元前3世紀に成立したササン朝では、国教とされました。7世紀以降イスラム勢力が侵攻すると、信者は、国を追われていきました。

     ゾロアスター教は光を善神の象徴とし、火を大切にするため拝火教ともよばれます。私は、ボンベイ(ムンバイ)の街角で鉄格子の窓越しに、この儀式を2時間ちかくみた記憶があります。拝火教徒は、パールシーとよばれます。彼らは、ムンバイの富を独占していると聞きました。ネルーの娘のインディラが結婚した相手は、拝火教徒でした。このカーストを越えた恋は、ガンジーが仲介したといわれています。

     ゾロアスター教を主題にして、たくさんの小説をかいてきました。作品番号43.「美神 ヘレナ」では、人類で最初に自己を発見した者として、ゾロアスターを書いています。当時は、無意識、自己、という言葉は、ありませんでした。彼は、闇と光で、これらを表現したと考えています。無意識は、フロイトやユングが発見したといわれますが、彼らは名前をつけただけです。作品番号07.「ダエーナー」は、まさにゾロアスター教が自己と呼んでいる本体を書いています。自己を発見した宗教ですので、私の小説には、ゾロアスターがたくさん書かれています。作品番号10.「螺旋のはざま」も、完全につながっています。伊藤義教が訳した筑摩書房、世界古典文学全集3「アヴェスター」からは、たくさんの文章が引用されています。

     伊藤氏の日本語訳は、素晴らしいと思っています。しかし、彼の説には納得できません。

                              由布木秀

  • 民族の核

     イランは、多言語国家で、多民族国家です。しかし、イラン語、イラン民族という言葉は一般的ではありません。なにをもって、この国の人びとは、自分たちが同じ民族だと認識するのでしょうか?

     歴史的なイラン世界とは、東はアムダリア川まで、北はカスピ海の南岸、西はメソポタミアという広い国土を指しています。おおむね、ササン朝の最大版図と考えられます。当時は、「イーラーシャフル」とよばれていました。「王書」(シャー・ナーメ)とよばれる英雄神話では、アムダリアの東を「トゥーラーン」とよんで区別しています。

     イラン系の人びと(民族)とは、言語的には広義のイラン語、つまり、ソグド語、ペルシア語、タジク語などを母語として話すグループを指しています。

     イラン文化とは、中央ユーラシアやインドをふくむ広い地域の宗教、美術、建築などを起源を、「イラン」にもとめたものです。たとえばゾロアスター教を中心とする、宗教儀礼や遺跡などについて用いられます。

     文字文化としては、歴史資料や文学作品が近世ペルシア語で書かれ、流通した範囲です。10世紀末ころからあらわれ、セルジューク朝をへて、イル・ハーン朝時代に確立する「ペルシア語文化圏」になります。

     ペルシア民族のアイデンティティは、ササン朝の版図を指していると思われます。ながい歴史のなかでつくられたペルシア文明という構造に違いありません。「ペルシア」のコラムであつかったように、この国には3000年の履歴があります。かつて世界帝国をきずいた記憶は、民族の核として刻み込まれているはずです。

     国家をきずいた民族には、固有の英雄神話が存在しています。

     歴史的事実かどうかは不詳ですが、人びとは自分たちがその一部だと考える物語をもっています。おそらく歴史時代以降でさえ、多くの部族が滅ぼされていったはずです。淘汰にのこった民族は、結集する核をもっているのが普通だと思います。

     クルド民族については、「チベット」ですこし論じました。「国家をもたない世界最大の民族」には、どんなアイデンティティがあるのでしょうか。現在クルド民族とされる部族のなかには、バルザニ家や、シェイク・ウバイドゥッラー、さらに山岳部族の戦士たちの英雄神話が存在します。しかし、こうした物語は、各部族に限定されています。例えるなら、激しい戦乱を生き抜き、私たちに命をつないできてくれた父や祖父も英雄に違いありません。しかし、彼らはあくまで家族に限定されています。

     歴史的には、アナトリアのサンド朝(1750~95)は、クルド民族の王朝とされます。サファヴァー朝末期やオスマントルコが一時的に滅亡した時期には、アナトリアは、周辺にいた多くの民族の草刈り場になります。そのなかにクルド族はいますが、「クルド」という自覚があったのは不明です。アゼルバイジャンの山岳地帯にいた、ババン、ソラン、ボータン、ザザ、ラク、ロルなどを「クルド部族」とよぶのは後世の再分類でしょう。彼らは、あくまで別々の部族という観念で行動し、さまざまなイラン・トルコ王朝で奴隷傭兵(マムルーク)などで活躍していましたが、クルドという集合体ではありません。クルドとは、山岳地帯の牧畜民の総称で、統一民族ではなかったと思われます。

     十字軍を阻止したイスラム世界の英雄、サラディンは、ラク系クルド部族出身のアイユーブ家の軍事エリートで、ファーティマ朝の簒奪者です。しかし、サラディンを「クルドの英雄」とよぶのは、近代民族主義の再解釈です。

     国家レベルになると、家族、部族という範疇をこえて民族をまとめ上げる英雄が必要になります。クルドには、そうした神話的英雄がありません。結集する核構造がなければ、民族意識は生まれません。クルドの人びとは民族という意識をもたず、自分たちが3000万もいることに長いあいだ気づかなかったのかもしれません。

     クルド族は、近代になって、トルコ、シリア、イラク、そしてイランから排斥されてはじめて、自分たちが国家をもたない同一の種族だと認識したのではないでしょうか。外圧によって民族の核が生まれたケースで、被抑圧者としての共有経験がアイデンティティを形成したと考えられます。

     3000年のあいだほとんど同一地域で暮らしてきたペルシアが構成人員をかんぜんに変更しながらも、ペルシア語文明圏として強固に存在する事実は、クルド民族の異質さを鮮明に浮かびあがらせます。

                              由布木秀

  • チベット

     クルド人という民族は、近年、日本の社会でも話題にされます。人口は3000万から4000万ともいわれ、「国家をもたない世界最大の民族」として有名です。トルコ、シリア北東部、イラク北部、イラン北西部を中心にひろく分布しています。20世紀以降、大国の戦略に利用され、切りすてられる歴史を繰りかえしてきました。

     1975年、イラクのクルド人勢力(バルザニが率いるKDP)が、イラク政府(バアス党)に対する自治権の獲得をもとめ、アメリカとイランの支援を受けて蜂起しました。しかしながら、同年にイランとイラクの「アルジェ合意」をむすびます。クルド人勢力は、支援をうしない、崩壊しました。

     1991年、湾岸戦争でイラクが敗北すると、アメリカは「イラク国民が、立ちあがることを期待する」と発言しました。それを受けて、イラク北部のクルド人勢力が蜂起しました。しかし、アメリカは軍事的な支援をせず、イラク軍は反乱を徹底的に鎮圧しました。数十万規模のクルド人が山岳地帯にのがれ、大量の難民が発生しました。

     2019年、シリア北部のクルド人勢力(YGP/SDG)は、ISILとの戦いでアメリカの地上部隊として戦闘にくわりました。しかし同年、アメリカは、とつぜんシリア北部から撤退しました。クルド人勢力は、孤立し、壊滅的な被害を受けました。

     アメリカは、世界各地の紛争に関与し、民族を自国の都合で巻きこみ、そして切りすててきました。クルド人の歴史は、その典型例です。

     チベットも、また外部の力学によって翻弄されてきた地域です。

     チベットは、宗主国だった清が崩壊すると、1912年にダライ・ラマ政権によって、国土の半ば以上に排他的実効支配を確立しました。イギリスをはじめとする複数の国々から独立国としてあつかわれていました。1951年、中国共産党はチベット全土を武力によって制圧しました。その後、チベット政府は自治の枠組みを維持しようとつとめましたが、人民解放軍の駐留によって、チベットは中華人民共和国の支配下に組み込まれました。

     中国共産党政府によるチベット併合後、チベット人による抵抗運動は徹底的に弾圧され、多数の市民が犠牲になったことはよく知られています。その数は、インドにのがれた亡命政府が発表した120万人(人口の1/6)は多すぎるとしても、国際研究者の推計でも20~50万といわれています。作品番号04.「世界は曼荼羅のなかで」は、チベットをあつかった部分があります。

     抵抗運動は、アメリカの支援を受けていました。チベット人ゲリラはコロラド州キャンプ・ヘイルで訓練を受け、チベット上空からパラシュート降下しています。この作戦で、沖縄の嘉手納基地が前線として利用され、間接的に日本も関与しました。

     アメリカの支援は、冷戦構造のなかで中国を牽制するための戦略でした。しかし、1969年にニクソン政権が誕生すると、状況は大きく変化します。ニクソンとキッシンジャーは、ソ連との対立を緩和するために中国との関係改善を最優先課題としました。チベット支援は、中国を刺激する障害とみなされました。つまりチベットは、米中和解の取引材料にされました。1972年、ニクソンは訪中します。ネパール政府がムスタンのゲリラ部隊を武装解除したのも、米中関係改善による圧力の結果でした。

     アメリカの継続的な支援を信じ、祖国解放のためにカムの大地を踏んだ名もないチベット人ゲリラは、どんな思いで空をみあげたのでしょうか。間違いなく、彼はそこから舞い降りてきたのです。 

     私は、インドから陸路でネパールに入り、チャイニーズボーダーまでたどり着いたことがあります。ふかい渓谷にコンクリートの橋が架かり、みあげるとレッドチャイナの赤い旗がひらめいていました。たもとには、銃をかかえた二人の若い兵士が立っていました。その異様な光景は、目に焼きついています。

     当時は、かつてチベットが独立し、その後、中国共産党が実効支配する現況を知識としてもっていました。しかし、抵抗運動については、よく理解していませんでした。ましてや沖縄が一つの舞台だったことなど、まったく知りませんでした。小説を創作する過程で知った、ショッキングな事実でした。

                              由布木秀

  • ヒッポリュトス

     パイドラとの悲恋物語は、サロニカ湾をはさんだトロイゼンで起こった出来事とされています。雲ひとつない地中海のつよい日差しのなかで、アテナイのアクロポリスからは、トロイゼンのアクロポリスが浮かんでみえたはずです。

     子宝にさずかりたかったアテナイの英雄、アイゲウス(エーゲ海)は、叔父のトロイゼン王、ピッテウスの館をたずね、海神ポセイドンに捧げられた島で、もてなされます。そこで、ピッテウスの娘、アイトラに出会い、恋に落ち、テセウスが生まれたとされます。

     ヒッポ、はギリシア語で馬を指します。リュトスは、解き放つ、破壊するを意味し、彼が浜辺で馬にひきずられて他界することを暗示しています。彼の母親は、アマゾン族の女王の妹、ヒッポリュテです。

     テセウスは英雄だったので、東地中海世界の果てまでいく定めをもっていました。黒海は、世界の北限で冥界にも通じていました。このちかくに、母系集団、アマゾン族が暮らしていました。彼は、ヒッポリュテ(馬を支配する女)に出会い、恋に落ち、ヒッポリュトスが生まれたことになっています。

     テセウスの親友、ペイリトオスは、ヒッポダメイア(馬を制する女)と結婚します。挙式の最中、ケンタウロス族(上半身が人間、下半身が馬)が狼藉におよび、人間界から追放されます。 

     馬は、人類がつくった素晴らしい家畜です。犬の1番は、揺るぎがたい真実です。牛、豚、猫なども甲乙つけがたい存在ですが、馬は2番に位置するかも知れません。なぜなら、過敏な馬を戦闘場面で動じなくなるまで訓練したのは、おどろくべき事実です。人類は、4つの文明圏に分かれていましたが、これを統合したのは、中央ユーラシアに繰りかえし起こった騎馬民族です。馬をたずさえた遊牧民を排除して、人類史を語るのは不可能です。

     海神ポセイドンは、天空神ゼウスと、冥界の王ハデスと、世界を三分割にしています。三叉の矛は、海、地震、馬というポセイドンの支配領域の象徴です。ですから、競馬の守護神としても崇められています。

     ヒッポリュトスは、テセウス似のたくましい若者に成長します。しかし、彼はアマゾンの血をひき、女神アルテミスの信奉者でした。

     エウリピデスの悲劇で最初の舞台は、トロイゼン王宮前の広場です。中央の大門の両脇に、アルテミスと、アフロディテの神像が建てられています。そこに、ヒッポリュトスが花冠をもって登場し、女神アルテミスに捧げます。いっぽうパイドラは、毎日、女神アフロディテに花束を捧げています。同性愛と異性愛の衝突を、美事に演出しています。

     誤解したテセウスは、ポセイドンにヒッポリュトスの死を願います。彼は、親族を殺したためにアテナイから追放されていました。だから自分自身では、殺害できない設定です。

     愛馬に乗ったヒッポリュトスが、テーバイにむかってトロイゼンの浜辺をぬけていたとき、とつぜん海から三叉の矛を持ったポセイドンがあらわれます。馬はおどろき、ヒッポリュトスは落馬し、手綱にひきずられながら他界してしまいます。

     この様子は、イギリスの画家、ジョージ・フレデリック・ウォッツが「ネプチューンの馬」という作品で、海のなかからポセイドンが馬をひきつれて出現する場面を劇的に描いています。波頭になった青白い馬は、神性を表現しています。

     この話は、ヒッポリュトスの同性愛が、父系社会を構成する父テセウスからも、祖父ポセイドンからも、はげしく拒絶された事実を表現しています。

     女神アルテミスは、死にゆくヒッポリュトスにささやきます。

    「ヒッポリュトスよ。愛するおまえに栄誉をさずけよう。これからは、トロイゼンの街では、嫁ぐまえの乙女に髪を切らせ、墓にそなえさせよう。おまえの純潔な死を悼み、ふかい悲しみの涙をくりかえしながさせよう。乙女たちが歌う歌声は、たえることないだろう。おまえの不幸な運命と、思慕したパイドラの悲恋が、いつまでも語りつがれていくために」

                              由布木秀

  • パイドラ

     クレタ文明は、ギリシア神話がうまれたころには、すでに滅んでいました。ですから、東地中海世界の覇者、ミノス大王が神話にくみこまれると、時代的に連続性がたたれることになりました。そのためミノス王を個人名でなく、王朝名として説明する研究者も存在します。こうした説にしたがえば、ミノス王は10代以上おなじ個人名だったことになります。

     神話では、ミノスには5人の子供たちがいました。娘は、長女パイドラと、次女アリアドネです。どちらも、クレタの神さまです。この二人は、鏡面構造をつくり、クレタ王家の表と裏を表現しています。パイドラは、光り輝く地中海の恵みをいっぱいに享受した明の世界。アリアドネは、その影のなかで生きる闇の象徴です。神話のこうした構図をいちばんよく伝えてくれるのは、パウサニアスの「ギリシア案内記」です。これを読まないと、小説はかけません。裏を返せば、エピソード化された、この書物のなかに入ると、イメージがあふれてきて、収拾がつかなくなるほどです。

     ギリシアの都市国家(ポリス)、アテナイは、クレタから東地中海世界の覇権をうばいます。神話のストーリーとして、アテナイの英雄、テセウスが、クレタ王女、パイドラを妻にむかえるのは至極自然です。

     誇り高き王女パイドラについては、悲劇作家、エウリピデスが「ヒッポリュトス」という作品をのこしています。ヒッポリュトスは、テセウスの異腹の息子です。彼は、同性愛者でした。エウリピデスは、この部分をきちっとかいています。この話のテーマは、母と息子という近親相姦では決してありません。パイドラは女神ですから、老いることがありません。だいいちテセウスとは、10世代以上も年うえなのです。1世代は、間違いなく誤差の範囲です。ですからこの挿話は、永遠に若く美しい女性と、彼女が情熱をもってうけいれた若いころの夫にそっくりな男性とのあいだにうまれた、純粋な悲恋物語です。この経緯は、作品番号41.「」にくわしくかかれています。もちろん、作品番号12.「アリアドネ」では、一章が割かれています。

     17世紀のフランス劇作家、ラシーヌは、この物語を「フェードル」という作品にしました。彼は、神話構造をまったく理解できない、恐ろしいほど下品な俗物です。ラシーヌが書いた作品がうけいれられた事実からみるなら、当時のフランス社交界がすでに爛熟し、腐敗していたことがよく分かります。

                             由布木秀

  • 魔女

     ほとんどつねに、社会的に上昇する人びとは、そのためにかえっておのれを失う。彼らは、以前とは変わってしまうからだ。彼らは、混じり合った存在、雑種となってしまう。(中略)。困難なのは上昇することではなく、上昇しながらも自己にとどまることである。

     ルネサンスは、15~16世紀におこったヨーロッパの文芸運動を指しています。中世から近代への移行期にあたり、ギリシア、ローマの思想と精神を復興し、さらに優れた文芸を志向した運動です。日本では、文芸復興とよばれています。都市としては、フィレンツェ。人物としては、レオナルド・ダビンチや、ミケランジェロが有名です。

     いま私たちは、歴史上こういう時期があったと理解しています。しかし、この時代を発見したのは、フランス人の歴史家、ジュール・ミシュレ(1798~1874)です。彼より以前、人びとはこういう時代認識をもちあわせていませんでした。ミシュレは、全19巻におよぶフランス史をかいたことで有名です。日本でも翻訳されていますが、私は読んだことがありません。

    「魔女」は、岩波文庫として出版されています。冒頭の部分は、後書きにかかれていたミシュレの言葉です。この本は、反キリスト教的とされ、禁書になり、フランス以外で発刊されました。 

     中世フランスでは、農奴は人間として認められていませんでした。さらに女性は、はげしい差別の対象でした。ミシュレがフェミニストと評価されるのは、このいちばん弱い者たちを「魔女」として歴史を分析したからです。そのために、この本は、フランス史という範疇をこえて、読みつがれているのです。農奴の女性たちは、社会から迫害をうけている農奴の夫からも、さらに疎外された真の犠牲者でした。彼女たちは、魔女として生きるより道がなかったことがつづられています。領主やローマ教会によって、魔女がつくられていく経緯が、ていねいに記載されています。

     現代、世界でもっとも力をもつ国の最高権力者が、なにか追及をうけると「魔女狩りだ」と反論する光景がくりかえされています。これほど違和感を覚える情景はありません。ミシュレだったら、さぞかし嘆く場面だと思われます。

     作品番号09.「海面下」は、能力をもった者が、自分におびえ、社会から追いつめられていく小説です。善悪はともかく、そういう構図で創作された作品です。

     ワイマール公国の大臣にもなった大作家ゲーテ(1749~1832)は、当時、全人といわれ賞賛の的でした。

     ミシュレは、ゲーテについて、「形式の面ではきわめて正しいが、精神の面ではそれほどではない」といっています。彼は、権力構造が人を変質させてしまうことを充分に知っていました。

     コラムの冒頭に掲げた文書を、読みかえしていただきたい。

     歴史から得た信念をもち、ローマ教会とたたかい、ナポレオン3世にもすりよらず、一介の庶民として死んだジュール・ミシュレは、英雄とよんでもいいだろうと思います。

                             由布木秀

  • エチオピア

     英雄、ペルセウスは、ゴルゴンの一人メドゥーサの首を取ってくる命令を受けます。ゼウスの息子だった彼は、軍神アテネと、ヘルメスの協力をえます。アテネに手をひかれ、顔をみないようにして、盾に映しだされたメドゥーサの首をとることに成功します。そのときの血しぶきから、ペガサスが生まれます。メドゥーサの首を袋に入れて飛行していると、エチオピアの王女、アンドロメダをみかけます。王女は、海の怪物ケートスの生け贄にされていました。彼は、ケートスを倒して、王女を妻にえます。

     ギリシア神話でエチオピアは、いくつか記述がありますが、おそらくここがいちばん有名な話でしょう。現在のエチオピアには海がないですから、南の果てを意味しているだけです。英雄は、つねに人がいけない未知の領域に侵入する定めをもっています。そこには、金銀財宝があふれ、美女が待っています。これが神話構造の骨格です。作品番号42.「擾乱」は、英雄がテーマです。

     ペルセウスとアンドロメダの子供たちが、神話世界をつくっていく主役になります。英雄ヘラクレスや、トロイア戦禍を引きおこす美女ヘレナも、ふたりの系譜につらなっています。

     エチオピアとインドは、とてもよく似ています。ともに世界の果ての象徴で、憧れを持たれ、理想化されました。

     インドは、大航海時代に冒険家たちがめざした土地です。ですから、彼らが到着した場所は、どこもインドだと考えられました。

     この話は、作品番号05.「旅の終わり」で触れています。

     エチオピアも、ずっと未知の領域でした。イスラムが北アフリカを占有し、イェルサレムをうばうと、キリスト教を奉じる未知の帝王、プレスタージョンの王国と考えられました。

     旧約聖書、列王記上10章、歴代誌下9章には、ソロモン王の知恵を試しにくる、シバの女王がでてきます。該当する国は、イエメンにあった、サバ王国が考えられます。しかし、紅海をわたって南アラビアからやってきた「エチオピア女王」だったという説が有力でした。

     エチオピアは、古くからユダヤ人が住み、4世紀にはキリスト教会ができたともいわれます。北アフリカがイスラム化したあと、エジプトで暮らすキリスト教徒は、コプトとよばれます。

     ソロモン王は、シバの女王の子供を認知して「聖櫃」(ターボート)をあたえたとされます。、エチオピアのコプト教会には、いまでも「アーク」がおかれているという話です。

     エチオピアは、植民地にされたことがない数少ない国でした。存在は知られていましたが、情報がかぎられ、すべてが謎につつまれた神秘的な王国でした。そこに「シバの女王伝説」がつけたされ、正統なキリスト教を奉じる巨大帝国と考えられたのです。ナイル川は、もともとエデンの園から流れ出ていると考えられていました

     スコットランドの探検家、ウイリアム・ブルースは、古代文献の真偽を確かめることが使命だと考えてナイル川を溯上し、1770年、伝説の天国「エチオピア」にたどりつきます。そこはアビシニアとよばれ、戦国時代のまっただ中でした。素晴らしく美しい女性が、たくさん暮らしていました。

     赤銅色のアビシニア女性は、端整な顔立ち、エキゾチックで気品のある雰囲気、そして艶がある皮膚の色から美人としてしばしば語られます。生をみてみたいとずっと思ってきましたが、なかなか機会が訪れません。

    「ナイル探検」(岩波書店)は、小説にしたいような面白い話で詰まっています。マムルーク(奴隷出身の軍人)と、アビシニアの赤銅色の女奴隷、この組み合わせはロマンの塊です。

     作品番号54.「領域」の「聖なる七つの丘」は、ここにチャレンジしましたが、書き直したい小説です。もう一度創作期がくれば、書けるも知れません。

                             由布木秀