• 小説新人賞

     私は、こうした賞を否定する立場にありません。新人賞がもうけられていたので、創作の期限を決め、改訂を目指すきっかけをつくってもらえました。人にみせられる65作品をのこせたのは、新人賞が至る所にあったからです。たいへん、ありがたいことでした。

     小説新人賞では、「同一投稿は、許可しない」という但し書きをみることがあります。しかし、投稿者がいい加減な気持ちで郵送料を支払う行為におよぶとは考えにくいです。投稿すると決めれば、最善をつくして改訂するのは間違いありません。もちろん、読み手はたいへんです。最後のページまで読んでもらえれば、一次予選は問題なく通過できると思います。ほとんどの作品は、最初の2、3ページでゴミ箱にすてられているのが現実でしょう。

     自慢にはなりませんが、おそらくギネス並に落選をつづけていました。60年ちかい投稿歴をもっていますが、有力な文芸誌の3次予選くらいまでが限界でした。そこまでいくと、もうすこしなおせたのではなかったかと、作品を今までとは違う観点からみることができます。すくなくとも5年間、20の新人賞に投稿しつづけた実績があります。この部分だけで、確実に100になります。

     このペンネームは、すでに悪名が高く、みただけで廃棄処分が決定されている事態も想像されました。実際に、筆名を変えて投稿したこともあります。しかし、担当者がそこまで考えるなら、年齢や性別、住所なども参考にするはずです。落選理由ではないと判断し、このペンネームをつかっています。

     新人賞受賞者がその後どうなったのかは、興味をもっていました。たとえ運よく受賞しても、小説をかいて生活できる人はほんの一握りです。自分で作家だと考えるのは自由ですが、客観的な評価を維持するのは難しい領域です。

     なんらかの運をふくめた「才能」という名づけがたいものが問われる分野は、スポーツであれ、芸術であれ、悲劇をうむ可能性をつねにはらんでいます。さらに複雑なのは、小説新人賞が才能発掘を主目的にしてはいないことです。出版書の事情によってつくられていますので、話題性がいちばんの条件になります。このため主題は、現代にマッチしなければなりません。しかし創作活動とは、どうでもいいことを考える行為を指しています。したがって、作者は基本的に内向的で妄想的です。人と打ち解けることを苦手とする者以外は、創作などという面倒くさいことはしません。新人賞受賞とは、この作者の内向性と、人びとが活動している現実とのはげしい乖離を、なんらかの手段で埋めなければなりません。

     投稿をつづけていたころは、受賞作はほとんど読みつくしました。しかし、この作者には敵わないと思えれば、創作をつづけないですんだ可能性もあります。評論家は、自分が作者ではないという前提で論評しますから容易に比較ができます。いっぽう作者は、自分が劣っていると認められれば、創作を放棄できます。内向的で妄想的な個性をもつなら、一般人が考えるほど簡単な問題ではありません。

     結局、自分がもっているオリジナリティを比べることになります。受賞作に圧倒されるのは、独創性という範疇で敵わないと認められるばあいだけです。しかし、このオリジナリティとは、突きつめれば変人度ですから、容易に納得できません。

     つまり、創作活動は、非常に解決困難な構造をかかえています。

     最終的には、主題が重くて現代にはマッチしない。活字離れの時代は、かならず揺りもどしがくる。軽薄不調で手軽な「SNSの時代」は、どこかで大きく逆流する。もう一度、人間の意味を問い直す社会が到来する。人類史は、ずっとこの反復運動をしている。などという妄想的な思考から抜けでることは困難です。

     作品番号45「異次元の女王」は、新人賞を受賞した場面から物語がはじまります。

    「妄想の果ての物語」と、名づけてもいいかもしれません。

                              由布木秀

  • 世界三大美女

     作品番号11「ソフィアに会った日」では、主人公が瞑想のため洞窟にこもると、世界の美女たちが誘惑にでてきます。そのなかには、クレオパトラや楊貴妃がいます。ミケランジェロの「聖アントニウスの誘惑」は、イメージの源泉になっています。

     ギュスターヴ・フロベールの同名作品も、取りいれられています。フロベールは、さまざまな作品をのこしたフランスの人気作家でした。しかし、どの小説も時代感覚が違っていて、いま読み直しても面白いとはいえません。この作品は、いちばん評判が悪く、不出来だから焼いてしまえとまでいわれました。しかし、時代を超えて残っています。

     作品番号10「螺旋のはざま」でも、西施など美女の話が登場します。

     日本では、世界三大美女は、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町になっています。おそらく世界中に、地元の美人を組みこんだ「三大」があるのだろうと思います。

     いちおう標準型の世界三大美女として挙げられるのは、ヘレナ、クレオパトラ、楊貴妃です。

     ヘレナは、ホメロスのイリアスで謳われた世界最高の美女です。トロイの王子、パリスは、最も美しい女神としてアフロディティを選びます。その褒美として、人間界最高の美女をもらいます。もともとヘレナは、スパルタの樹木神です。作品番号43「美神 ヘレナ」は、クレアツーラという惑星で唯一みつけられた、地下に樹木状に根をはる生物の名称です。

     とはいっても、ヘレナが例外なのではなく、クレオパトラも楊貴妃も、ほとんど神話的な存在です。このコラムでは、こうした美女が似た構造をもつことを話題にしたいと思います。

     神話的な美女は、世界を滅ぼすためにうまれます。ですから、文明が爛熟しないと出てきません。歴史の転換点に位置するので、悪女と評されるばあいもたくさんあります。

     この美女たちは、いずれも最高神と関係をもっています。

     ヘレナは、ゼウスの子供で、卵としてうまれました。

     クレオパトラは、エジプト神話の豊穣の女神、イシスのうまれかわりともいわれます。 エジプト神話の「オシリスとイシス」は歴史的には非常にふるく、ギリシア神話では、イシスをゼウスによって牛にかえられた女性「イオ」として取り込もうとします。

     アレクサンドロス大王によってエジプトのファラオは、ギリシア系にかわります。クレオパトラは、その末裔です。フラウィウス・ヨセフスの「ユダヤ古代誌」では、彼女は、ただただ権力欲にまみれた残酷な悪女とされ、美人だったという記述は、ほとんどみつけられません。

     楊貴妃は、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する道教の「タオ」と関係づけられます。

     さらに美女は、光り輝いています。傾国の美女とは、光を内部に取りこむ装置です。コラム「ゴールド」でも話題にしますが、太陽はあらゆる力の源泉で象徴です。ですから、美女は、太陽の一部をひきつぐ必要がうまれます。それは、月光の影にもなります。夜空に太陽の光をうけて輝く月は、神秘的で、みる者に狂気をあたえるとされています。

     こうしたなかでも、クレオパトラが真珠を酢にとかして飲用するエピソードは圧巻です。真珠は、現在は人工的につくられますが、当時はダイヤモンドにも勝る貴重品でした。聖書外典の「トマスの福音書」には、有名な「真珠の歌」が出てきます。神が暮らす天上から雨に交じって降ってくる「魂」が大海にとけて沈みこみ、それを長い年月をかけて目にみえる形にしたのが、真珠だと考えられていました。この福音書のなかで、トマスはインドに布教にいきます。聖トマス教会は、いまでもインドで布教活動をしています。

     真珠の歌を内包した作品が、「ソフィアに会った日」です。その気になって読んでいただかないと、分からないと思います。

    女性光の象徴物質化した形(象徴物)文明圏
    ヘレナゼウスの光
    白鳥、卵
    卵(光の球体)から誕生ギリシア
    クレオパトライシスの光
    月光
    真珠(光の結晶)を溶かして飲むエジプト
    楊貴妃道号、太真
    真光、虹光
    香(光の気)、玉環(光輪)、虹霓の屏風中国(道教)

                              由布木秀

  • ダエーナー

     ダエーナー(Daena)は、ゾロアスター教において意識を擬人化したものと考えられている存在で、美しい処女の姿をしている。

     ウィキペディアに記載には、誤りがたくさんあります。生成AIがつくる文書とおなじで、間違っていることを前提に考えないと正誤が不明になります。

     ゾロアスターは、人類で初めて「自己」を発見した者と考えられます。それ以前にみつけた人がいたとしても、文献的に検索できません。彼は、世界を光と闇の二元論で説明しました。間違いなく、光は意識、闇は無意識を指しています。彼の時代には、こうした現代の心理学用語がなかったのです。

     伊藤義教が訳した筑摩書房、世界古典文学全集3「アヴェスター」を読むと、ゾロアスター教の創始者たちが、たいへん豊かな想像力をもっていたことが分かります。

     ふと、森の匂いがした。奥ぶかい、木々の息づかいだった。それが、橋のむこうから流れてきていた。その香りが、やわらかい風にのっていた。橋のむこうの扉がゆっくりとひらいて、さらにいい匂いがただよってくる。オレンジ色をした夕日がもれて、あけはなたれた戸から大量の西日があふれでていた。

     そこから、暖かい南風とともに、芳しい緑の香りがはこばれてくる。ゆるやかな流れにのって、魂に吹きよせてくる。その大気を呼吸している。いい匂いにむかって歩いている。

     橋にながい影がさし、それを目で追うと乙女がいた。

     白く輝くスカートをはいた、すらりとした肢体がみえる。

     大きく胸のはだけた銀色に煌めくシャツを着て、真っ白なほそい紐を腰に巻いている。露わな肩、金のブレスレットが光る白い腕、張り切った乳房がみえる。高貴なうまれの、美しい乙女がいた。

     これは、作品番号07.「ダエーナー」最終部の一節です。

     主人公は、家電量販店で副店長をしています。万引き犯をみつけ、話をきき出します。それは、自分がおかれている状況とそっくりでした。彼が放免した男は、家電量販店の屋上から飛び降り自殺します。どこまでも相似な関係のなかで、自分が何ものだか考えはじめます。おりしも、社長が自宅の橋状になった廊下から転落死します。社長の令嬢は、若くて美貌でした。彼女は、主人公が20歳のときに描いた絵と、そっくりな絵画を描いていました。彼女の義理の兄は、悪魔だったのです。主人公は、副社長の命をもって社長令嬢の救出にむかい、橋状の廊下でナイフによって刺されます。

     そして死ぬ瞬間、彼女こそが自分だったことに気がつくのです。

     ダエーナーとは、自己を指しています。

     自己とは、たくさんの自分から形づくられる、中核部分です。

     ユングなら、生まれたときから嫉妬にさらされる者と定義するでしょう。ダエーナーが、現世の仕事を終えた自分を待っていてくれるのは、チンワント橋です。最後の審判のモデルになり、イスラム教でも取りいれられました。

     ゾロアスター教の天使たちは、世界の豊かさを象徴しています。

     こうしたことを、3000年以上もまえに、考えついた人がいたのです。

                              由布木秀

  • 弥勒

     作品番号31「弥勒をみつけた日」第3章「弥勒」は、1)生誕物語、2)現世創出物語、3)幽閉物語、4)脱出物語、5)転生物語、の5節から構成されています。

     この小説の履歴は非常に古く、着想は1970年以前と思われます。完結して残っている最古の小説は、作品番号30「アルジェの朝」です。

     創作活動は、幾度もやめようと考えて原稿を燃やしています。

     それでも残っているのは、幾度もくり返し着想したからだと思われます。

     最初は、「檻」という題名でした。ある日、男は、自分が檻に囲まれているのを発見します。檻のなかでは、チャンピオンになれます。しかし、気がつくと出てこられなくなるという物語です。幾度も改訂され、「檻の男」という70枚くらいの小説となり、最終的に不完全作品集に収録されました。不完全に分類されたことは、完全作がつくれると思った証拠です。

     この小説は、「アイオン」と名づけられ170枚くらいの作品になりました。これを改訂して、「ニルヴァーナ」がつくられています。17期、420単位(630時間)、創作ノート140枚という作品です。今回、さらに改訂されて「弥勒をみつけた日」と改題されました。

    「檻」、「檻の男」の段階では、仏教思想も充分には理解していませんでした。グノーシスについては、ほとんど無知でした。「アイオン」に改訂される過程で、こうした思想が組みこまれていきました。

     私の小説は、「自己の発見」、「SELFの顕現」というテーマが圧倒的に多いので、ゾロアスター教は基礎的部分になります。あらゆる宗教は自己と向かいあう行為ですから、小説の枠組みに取りいれられます。なかでもグノーシス思想は、たいへん相性がいいのです。組織よりも個人をあつかい、抑圧される側に立っているので、現代にも充分に当てはまります。

     グノーシス思想にかんしては、たくさんの書籍を読みました。しかし、起源を仏教にもとめる文献はみつけられません。グノーシスは、よく知られているとおり、いまのクルド人が住んでいる辺りで興隆しました。彼らが国家をもたなかったことと、ふかく関係していると考えています。クルド人は、抑圧する側に立った歴史がない可能性があります。この思想は、抑圧された者たちのもので、あきらかに現世否定型宗教といえます。

     仏教は、圧倒的なヒンドゥー教をまえに、現実に発展ができませんでした。そこで、この世を牛耳っている勢力、つまりバラモン階級を欲天の頂上に置いたのです。波旬が支配する「他化自在天」とは、他人の欲望を自在にあやつり、世の中をうごかすことで喜びをえるという意味です。

     現代の政治家とそっくりです。

     グノーシスには、さまざまなタイプがあります。こまかく分ければ、切りがないほどだろうと思います。具体的には、現世の神は偽物で、彼らを創造した者をつくった至上神がいると考えます。神は、自分たちのはるか彼方に存在する至上神がいることに嫉妬して、創造者を幽閉していまいます。ですから、この世を救済するのに、現世では救世主が捕らえられているという神話がうまれます。現世の神は、デミウルゴスとよばれます。彼がつくったものが、アルコーン(現世の支配者)です。

    【仏教】六欲天【グノーシス】宇宙論【性質】
    第六天(他化自在天)波旬デミウルゴス欲望世界の支配者、偽の創造主
    第五天(化楽天)アルコーン層中間支配者
    第四天(兜率天)弥勒アルコーン層(高位)中間的神性、未来仏の待機層
    第三天(夜摩天)アルコーン層半神的存在
    第二天(三十三天)帝釈天アルコーン層下位支配者
    第一天(四天王天)アルコーン層(最下位)物質界に近い支配者

                              由布木秀

  • ゴールド、11

     このコラムでは、仮想通貨について考えてみます。

     仮想通貨( virtual currency)は、日本では2020年に改正資金決済法が施行されて暗号資産(crypto-asset)という名称に変更になりました。

     暗号通貨( cryptocurrency)、いわゆる「仮想通貨」とは、現実に存在する消費財などを売買できるよう設計された仮想の通貨です。仮想通貨は、データとして存在するデジサル資産(digital asset)と結びつけられています。個々のコインの所有権の記録は、電子化されたデータベース上の台帳に保存されます。強力な暗号によって、取引履歴の安全性が保障され、新たなコイン生成が管理され、所有権の移転が確認されるものとされています。

     作品番号11.「ソフィアに会った日」では、仮想通貨をつかったエキサイトというゲームが紹介されています。このゲームでは、どのようにハッキングして、現金化するかという方法が考案されます。現実に韓国の北側の国では、国家が一体となってハッキングしています。

     厳しい監視のなか、つかわれていないふるいアカウントを利用して大量の口座をつくり、盗んだマーキングされた通貨を小分けにして分散させます。そこで、さまざまな取り引きを行い、ほかの貨幣と目茶苦茶にまぜあわせ、もとがなんだか分からなくさせます。最後には可能なかぎりの方法を駆使して一般通貨に交換し、現金化します。

     成功すれば大金持ちになり、気に入った邸宅を購入することができます。住居の場所や外装、間取りなどを、お金に応じて選択できます。さらに資金をつくれば、愛人たちを複数の邸宅に住まわせることができます。お金を一定以上つむと容姿端麗な女性のヌード写真などがあらわれ、好みに応じて選択、非選択を決められる特典がついています。

     対象になる仮想通貨は、取り引きできるものだけでも90種類以上あります。時価総額は、200兆円をこえています。ビットコイン(BTC)は、とくべつ大きく50%をしめています。イーサリアム(ETH)も、20%、70兆円の時価をもっています。1兆円をこえるものだけでも、3位のビルドアンドビルド(BNB)以下、リップル(XRP)、ソラナ(SOL)、カルダノ(ADA)、ドージコイン(DOGE)、トロン(TRX)、チェーンリンク(LINK)、ポリゴン(MATIC)、11位のアバランチ(AVAX) まで揃っています。調査費を払って、ハッキングする仮想通貨を決定します。とうぜんながら、通貨によって成功確率に違いがあります。もちろんビットコインはいちばん難しく、下位にいくほど容易ですが、成功しても時価総額以上を獲得することはできません。現実的な対象はイーサリアムまでに絞られますが、必要額が500億円程度なら、アバランチをつかえばかなり安全に資金調達が可能です。

     さらにいろいろな案がだされ、通貨取引所自体をハッキングする方法もあります。これを可能させると、ハッキング成功率が急激に上昇します。

     こうした物語をつくれるのは、この仮想通貨による資産が、1)担保の所在が不明、2)発行主体が不明、3)発行額が無限に増やせる、など、文明の信用構造の外側で形成される「担保不詳化資産」だからです。

     資産と名づけられると、価値をもっているような錯覚を生みだします。しかし、 仮想通貨を基盤としてつくられる暗号資産は、完全な担保不詳化資産に分類されます。

     仮想通貨は、いくらでも種類をつくれるため、担保の供給量が無限に拡大します。まさに仮想領域で拡大するため、現実に適合できません。 BTCは、発行上限があるとされますが、プロトコール上の建前です。半減期も、コード上の約束にすぎません。破られても 責任主体が存在しません。通貨は、国の信用で成立しています。もし信用をうしなえば、通貨安という形で責任をとることになります。国家の徴税能力、経済力、軍事力をふくめた総資産が、担保化されているともいえます。暗号資産には、裏づけとなる担保がまったく存在しません。暗号技術は、量子コンピュータなどの技術的飛躍があれば、無価値になります。

      したがって仮想通貨によってが生みだされる暗号資産は、文明の信用構造の外側で形成される 典型的な「担保不詳化資産」です。リキッド・ファンディングでみたように、この資産クラスは、詐欺的構造になりやすい性格をもっています。

                              由布木秀

  • ナラティブがつくる世界

     ナラティブとは、世界を理解するための物語ではなく、 自分が望む形に書き換える「装置」です。ナラティブが横行すると、事実は編集され、解釈によって上書きされます。

     オックスフォード英語辞典によれば、 Narrative という語は16 世紀の法的文書が初出で、出来事のつらなりを記述する意味でつかわれています。

     1980年代、 Narrativeは「人間の経験を構築する装置」として、つかわれはじめました。ここが、転換点になりました。

     1990年代後半から、医療、看護、心理学、社会学、教育学

    福祉 などの領域で急速に普及しました。とくに 「科学的根拠ではとらえられない領域をあつかう語」 として注目されました。

     物事を望む形に書き換える装置としてのナラティブは、 ポスト真実(post-truth)社会の分析(2010年代以降)で、急速に議論されるようになった新しい用法です。SNS、政治、メディア環境の変化により、 ナラティブは、「現実を書き換える力」 という意味が強調されるようになりました。

     現実がうまくいかないとき、人は世界を物語として書き換え、 自分を納得させようとします。 ナラティブは、自己愛をまもる装置をしてつかわれます。責任を曖昧にし、 客観を霧散させます。

     政治では、 国家が他国に仕掛ける認知戦の脚本 という意味でつかわれています。あるフレーズに多様な意味を一挙にあたえ、物語化します。たとえば、「台湾問題への介入」、「軍国主義復活」、「対米従属」、「MAGA」というようなフレーズです。かつてのスローガンやレッテル貼りと、おなじになっています。

     ナラティブは、国際政治、安全保障、情報戦、プロパガンダ研究 で標準語になっているのが現状です。

     ナラティブは、個人と政治では、用法が違っているようにいわれます。しかし、一皮むくとおなじ構図がみえてきます。

     国家のナラティブも、個人のナラティブも、 本質はただ一つです。 現実を、自分に都合のよい形に書き換える装置として機能しています。国家は 自国の立場を正当化するため、個人は 自分の心をまもるために現実を書き換えます。規模が違うだけで、 構造は完全に同一です。

     国家のナラティブの結論は、「我々は正しい」「相手が悪い」

     個人のナラティブの結論は、「自分は悪くない」「社会が悪い」

     つまり、 ナラティブとは、主体が自分を守るための正当化装置です。国家も個人も、 現実不全の補填として生まれています。

      国家の現実不全は、経済停滞、国際的地位の低下、軍事的脅威、国内の不満などです。個人の現実不全は、経済的停滞、将来不安、自己能力感の低下、社会的孤立などです。現実がうまくいかないとき、国家も個人も、ナラティブに逃げこみます。どちらも、主観の世界に閉じこもり、客観性を放棄します。

     ナラティブは、 AI分析と相性がいいのです。AIは、時系列と単語を知っているだけです。この間隙を埋めるものは、ほんらい客観だったのですが、いまは主観でいいことにされています。

     経済成長が止まると、人は現実を受け入れられなくなりました。

     物語は、 現実の政治を努力の産物にかえ、過去の事実から自分をまもります。 そのとき、ナラティブは都合のいい現実を容認するための装置としてうごきはじめます。

     作品番号33「親友とよぶ男」、作品番号46「自分史講座

     これらの作品は、ナラティブの構造をあきらかにした小説です。

     客観的事実を積みかさねて、虚構をつくるのが小説です。客観的事実をもりこんで、自分に都合良く編集し、承認をもとめる行為がナラティブです。小説がつくりだす虚構の世界は、自己表現ではありますが、あくまで作り物です。ナラティブは、自分のなかで虚構化を拒否しています。つくりだしたものを、事実として承認させようとする試みです。そこに、異論を許させない構造が生まれます。

     とても、危険な行為といえます。

                              由布木秀

  • インド

     作品番号26「インド」を改訂しました。

     この作品は、がんらい旅行記として存在していました。未完となって放棄されていましたが、今回、全面的に構想を変更して改訂しました。

     固有名詞などを一切はぶき、事実と距離を置きました。インドは、創作の舞台になったので、あまり事実に拘泥するのは無意味です。

     旅程を振りかえって書き直してみると、かなりの部分が創作の対象になっていることが分かります。類似した記述をしても仕方がないので、ある土地で起こった話が、どの物語に取りいれられているのかについて明示しました。この結果、作品が創作される舞台をもう一度整理した形になりました。つまり、インド関連の作品と、現実の旅行がどういう具合につながっているのか、分かるようになりました。

     具体的には、01「神の住むちかくで」、02「カトマンズ」、03「チャイニーズボーダー」、04「世界は曼荼羅のなかで」。この4編をまとめてプロローグをつけた、66「象は二度跳ぶ」。これらは、裕明との北インドの旅を軸にかいています。

     36「ホテルウエルカム」、37「プラナブの夢」、38「ヒロミの部屋」。これらをまとめてエピローグをつけた、67「ガンジスに抱かれて」は、ベナレスで出会った俊和との話から、ヒンドゥー教を中心に据えてかいています。

     14「仏陀の弟子たち」は、ラージギルの日本山妙法寺が舞台になっています。さらに、15「光に」は、インドの風景をかいています。こうした作品群が、「インド」という作品でつなげられたことになりました。小説の背景をかきましたが、内部には立ち入らないように配慮しました。

     創作は、作品番号26「インド」とは無関係で、別個に存在しているという構造です。

     改めてインドという国を考えるなら、青春時代に素晴らしい機会に恵まれたと思います。父は、若いころ、中国大陸を軍とともに移動していました。似た経験をもったのだと、胸に感慨が湧いてきます。

     この作品を読むと、インド大陸を縦横無尽に旅をしたことが分かります。

     インド国鉄の1等車周遊券、60日期限を購入したので、夜行寝台にのりきっています。1等車には、サーバントがつきます。4人のコンパートメントに、3食をはこんできてくれます。一切、チップを支払う必要はありません。1等車の価格は、2等車の8倍でした。ですから乗客は、金持ちだけでした。ときどき、新婚旅行の外国人カップルが乗りこんできました。

     北インドは、小説の舞台になっています。とはいっても、不慣れな1ヵ月、具体的には、ボンベイからアウランガバードを経てアグラに、そしてカシミール地方のスリナガルからブッダガヤまでの行程は、創作に取り入られなかった部分です。今回は、この期間を中心としてかいています。

     また、南インドはほとんど創作の舞台にならなかったので、経路や風景を描出しました。インダス文明をになったとされるドラヴィダ人は、アーリア人の侵攻に敗れて、南に追われていきました。南インドは、タミール語圏で、北インドとは文化、食生活にも違いがありました。

     もう50年ちかく経過していますが、インドは柔な体質ではありません。歴史とか文明とかよばれるものは、民族の核となって深く根をはっています。むかしの話だと考えてしまう人びとは、表層的な部分だけをみている方です。

     私の作品が、もっとふかい部分に触れていることを理解していただけたらと思います。

                              由布木秀

  • リッダ

     出て行けなんて、言わないでくれよ。

     だって、おれは、ここで生まれたんだから。

     パレスチナの詩人、ファウジ(フォージ)・エル・アスマールは、「リッダ」のなかで、こんな詩を書いています。彼は、ハイファでの少年時代から、土地の没収、差別、抑圧の構造を目撃した経験を語っています。1968年、行政拘束囚とされました。この書籍のなかで、占領下での生活と抵抗の記録を克明に描いています。自伝の一種ですが、パレスチナ近現代史の一次証言として高い評価を得ています。

     パレスチナ問題は、大国のエゴによって生みだされた悲惨な物語です。

     とくに近年のイスラエルは過激化し、国民の総意とはとても思われない蛮行が日常化しています。仮にも民主主義という枠に存在するはずの超大国の大統領が、完全な解決策として「パレスチナをリゾートとする」と主張したのは、彼の粗野な精神構造を浮き彫りにする発言でした。ヒトラーが「最終的解決」と称してホロコーストを行った歴史と、どうしても重なりあってしまいます。

     パレスチナ問題の解決のためには、イスラエルがこれ以上、領土を拡張しないことが最低の条件です。たがいの存在を認めあわないで、排斥するだけでは解決できないのは明らかです。

     私は、アスマールが、なぜ「リッダ」という題名をつかったのか興味があります。

     リッダは、背教、棄教を意味しています。

     イスラム教の開祖ムハンマドは、アラビア半島内の諸部族と、アッラーの預言者である彼にしたがうという盟約を結んでいました。しかし632年、ムハンマドが死ぬと、イスラム世界は動揺します。初代カリ、アブー・バクルが後継者となると、諸部族は権威をみとめずに契約を一方的に破棄しました。彼は、カリにしたがわない部族は、イスラムの教えをすて、背いたとして討伐軍を派遣しました。この戦いを「リッダ戦争」とよびます。

     アスマールは、イスラム教徒です。彼は、イスラム教をすてたのではないのです。 彼は、おそらく共同体から追放されたことを、この言葉に託したと考えられます。このリッダ戦争とは、よく考えてみると、諸部族はイスラム教をすてたのではなく、権力から「棄教とみなされた」ということです。つまり本人の意志ではなく、リッダという言葉は、権力がつかう言葉ということになります。「非国民」や「非愛国者」などとおなじ構造をもつ、レッテル貼りだと考えられます。だから、あえて彼はこの言葉をつかったのでしょう。

     作品番号59「リッダ」は、こういう背景で読んでいただけると、意味がよく理解できるのではないかと思います。

                              由布木秀

  • 仏像彫刻

    作品番号14「仏陀の弟子たち」を創作するために、仏像彫刻について研究しました。関連する書籍を50冊くらい読みました。

     理解したことを小説に書いていくと、仏教彫刻の教科書になってしまいます。これは、どういう作品にも当てはまりますが、やがてすべて省かれる運命になっています。創作の基盤と内容は、まったく別物だからです。いくら研究しても、自分が仏像彫刻家でないかぎり、ほんとうの部分は不明なのです。そこまで合点がいって、はじめて創作のなかで生きてくる部分です。

     彫像という分野は、非常に特殊です。勝手につくっても、どこに置いたらいいのか分かりません。とくに仏像彫刻は、先達の仏師に教えを請う必要があります。発願する人がいて、また仏師とのあいだを取りもつ導師が不可欠です。さらにつくられた仏像を崇めてくれる、衆生がそろわねばなりません。要するに勝手につくっても、設置する場所がないのです。

     有名な芸大出身の仏師、西村公朝は、自分を職人だとくりかえしています。

     松久朋琳の「京仏師60年」を読むと、制作は、仏像彫刻の中心となる木彫師のほか、彩色師、金箔師、木地師(木材選定から形出しまで担当)、漆工師(漆塗師)、蒔絵師(漆面に金粉や銀粉で模様を描く専門家)、錺金具師(仏具担当)などが協力して行う作業のように書いてあります。

     円空、木喰などは、非常に例外的な存在です。

     仏像には、造形規範があります。1)身体比例(プロポーション規範)、2)相貌(顔の造形規範)、3)印相(手の形)、4)持物(シンボル)、5)服装、装身具、色彩という体系からなり、こうしたものが揃って「仏としての姿」がはじめて成立します。

     仏師は、自己表現する芸術家ではなく、職人になる必要があるようです。

    「仏陀の弟子たち」では、芸大出の主人公は、観音菩薩の肌の柔らかさを示す

    首についた三本の皺(煩悩、業、苦を象徴する)に、自分の飛躍を願って一本つけくわえます。それが、室生寺の住職を怒らせ、導師をうしなってしまいます。

     ラージギルで会った彫刻家は、いつでも黙々と仏像を彫っていました。私は、この方に会いに行ったのです。そのおり、彼の別れた奥さんが新しいご主人と娘をつれて面会にきたという話をききました。思いかえしてみると、私の勘違いだった可能性もあります。創作のなかで、勝手に考えたイメージだったかもしれません。

     真偽不明ですが、そのモチーフが、この作品の創作につながったのは間違いない事実です。

                              由布木秀

  • 弥勒菩薩

     よく知られているように、弥勒菩薩は、仏陀入滅後56億7000万年後に世界に出現して、多くの人びとを救済する契約をむすんでいる未来仏です。正式名は、マイトレーヤ( MAITREYE)です。「 MAITRI」の語源は、慈しみを指します。「MIROKU」は、この音写だといわれます。

     ミトラ教(MITHRA)、またはミトラス教(MITHRAISM)は、紀元1~4世紀のローマ帝国治下で隆盛した、太陽神ミトラスを主神とする宗教です。古代インド、イランに共通するミトラ神への信仰が、ヘレニズム時代の文化交流を経て地中海世界に入り、形を変えたとものと考えられています。祭儀では、牡牛を屠ったといわれ、あきらかにゾロアスター教との関連が示唆されています。

     ミトラ(MITHRA)は、もともと契約の神で、ゾロアスター教では、英雄神、太陽神とされます。主神、アフラ・マズタとも関係しています。とうぜん大日如来との関連も示唆されます。インド、クシャーナ朝では、バクトリア語、ミイロ(MIIRO)とよばれ、この語形が弥勒の語源になったともいわれます。

     メシア思想とは、救世主の出現を信じる教義です。世界宗教の基礎をつくったゾロアスター教の「サオシュヤント」にはじまります。ヒンドゥー教では「カルキ」。ユダヤ教では「マシヤフ」。キリスト教では「キリスト」。イスラム教では「マフディー」。そして、仏教では「マイトレーヤ」になります。

     アヴェスター語、 Miθra(ミスラ/ミトラ)は、 語源的に 契約、誓約を意味します。宇宙秩序を回復する契約、といってもいいかもしれません。

     日本につたわってきた弥勒菩薩は、とくに持物がないですが、インドでは水瓶をもっています。これは、おそらく聖別するための「油」が入っていたと想像されます。キリスト教における契約の刻印(アノインティング)を意味する「塗油」に通じています。

     もし水瓶を携えているなら、ゾロアスター教の水と豊穣の女神、アナーヒターとの関連をつよく示唆しています。聖観音菩薩が、持物として水瓶を携えていることにも符合します。つまり、女性神格をふくんでいることになります。

     弥勒菩薩は、仏陀本人ともいわれ、男性神格とされています。菩薩は変化することをふくめ、性別を特定できない可能性もあります。ゾロアスター教は、大天使にはっきり女性神格を認めています。仏教は、男尊女卑の時代を反映して変性男子という思想を生み、本質的に女性か男性かを決定しにくい構造になっています。

     こうした歴史的経緯はさておき、仏教の弥勒菩薩の位置はきわめて謎めいています。

     仏教では、世界は、無色界、色界、欲界、の三界から構成されます。

     欲界には、六天が存在します。第一天、四天王。第二天、帝釈天。第三天、夜魔天。第四天、兜率(とそつ)天。第五天、化楽(けらく)天。第六天、他化自在天です。

     この最上層の第六天を、魔王、波旬(マーラ)がしきっています。彼は、ヒンドゥー教の主宰者、バラモンです。つまり、弥勒菩薩が修行しているとされる兜率天は、波旬のかんぜんな管理下にあります。ほんらいの救済者は、現世支配者の奥深くに捕らわれているのです。そのせいで、自分たちは救われない状況にいるのです。したがって、救われるためには、まず「救済者を救出」する必要があるというグノースシス思想の先駆的な構図です。

     映画「マトリックス」では、救世主ネロは、AIに捕らえられています。モービシャスが、救世主を救いだす場面からはじまります。そう考えるなら、NERO(ネロ)と、MIROKU(ミロク)は、音韻的に類似しています。中心の母音構造に、「RO」がおかれています。子音、N、Mは、非常に類似した鼻音です。偶然以上に近似しているとも考えられます。MERO、NIROKU、と変化させれば、一層はっきりとします。

     作品番号34.「弥勒をみつけた日」では、仏教思想とグノーシス思想との類縁関係を追求しています。

     広隆寺の半跏思惟像は、女性的に描かれています。

    「弥勒をみつけた日」では、弥勒は、美しい女性の姿をしています。

                              由布木秀